ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムからの脱却

<はじめに> 最終加筆修正 令和元年8月11日

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 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムというのが実際のところどのようなものであったのか、具体的な知識はありません。ただ、これがノーマン・ファイルに含まれていたものであることを知ってちょっと驚きました。
 まだ若かりしころ、このハーバート・ノーマンが記した安藤昌益の研究本を購入したことがあります。本としてはけっこうな金額だったと思いますが、その出版社(農村なんとか)から「こういう本に興味をもたれる読者とはいったいどういう方なのか知りたいと存じまして」と、電話がかかってきたのを覚えています。いや、私などはただ知識の食い散らかしにすぎず、正直なところちっとも理解できませんでした。
 以来数十年を経て記憶も薄くなっていましたが、ハーバート・ノーマンという人は、私の中では、「二つの祖国の間に挟まれた悲劇のヒーロー」みたいなイメージが定着しておりました。

 それがいま、VENONA文書により彼がスパイだったと知らされ、ショックでした。スパイというより、要するにコミュニストだったわけですね。ネットのビデオで生前の彼の姿を見て悲劇のヒーローとしてのイメージはふっとびました。

 ついでに彼が宣教師の息子だったこともあらためて知って、いったいこの人の宗教観とはどのようなものであったのか不思議な思いにかられています。
 日本にキリスト教を布教するためにやってきた家族の一員として、日本人の心情を熟知するにいたり、その上でウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムを編み出したというのでしょうか。それはないでしょうと言いたくなります。
 要は日本人が好きではなかったということなのでしょうね、コミュニストの日本人以外は。文化の狭間なんてなんにもなかったのです。それなのにそう思い込んで、私のように「悲運の人」と思っていた日本人も多かったのではないかと思います。

 さて、私は英日の産業翻訳で30年なんとか暮らしてきましたが、独学で英語の勉強をし始めたころ、私が最初に完読した原書はジョージ・オーウェルの「動物農場」でした。これはひとつには短かったというせいもありますが、手にとったのはもちろん興味があったからです。
本好きの私にとって、作家を弾圧するような現実の共産主義国家は、それだけでも受け入れられるものではありませんでした。そのように共産主義や全体主義国家に対する疑問や恐怖はすでに1980年代にもっていたせいか、自分ではウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムなどというものからは比較的解き放たれていたと思い込んでいたようです。
 数十年を経て、それがそうではないと思い知らされたきっかけは阿羅健一氏の著作「南京事件 - 日本人48人の証言」でした。

 私はこの本を精読いたしました。精読とは、つまり、英訳したのです。
 もともとはフィンランド人の夫に読んでもらうため訳し始めたのですが、やっているうちにどんどんこちらが引き込まれていきました。

 私は南京事件についてはまったく無知なところからスタートしました。
 著者の阿羅氏はおそらく私のような読者はまったく想定しておられなかったでしょう。
 私にとってこの本のハンドルとなったのは、語り手たちによって具体的に示される当時の時代背景と、そこに登場する多くの文学者たちの名前です。かくも多くの文学者たちが戦線に赴いていたのです。とくに好きな作家はいませんでしたが、聞き慣れた小説家の名前を見るたびに糸が手繰り寄せられるような感じを覚えました。南京事件そのものよりそういう人々の動向にまず興味をそそられたといってもよいでしょう。

 スピードに追われる産業翻訳と私的な変化の中で疲れがたまり、私はここ数年まったく翻訳の仕事から遠ざかっておりました。その間に脳みそもかなり休養ができていたのでしょう。この「48人の証言」の翻訳作業に入ったとたん、自分にまだかなりの気力が残っていたことがわかりました。
 とはいえ、最初は多少のとまどいはありました。読めばおわかりになるでしょうが、この本の中には夥しい数の人名、地名、階級名が出てまいります。最初はあとでチェックして一括変換すればよいと思い、コンテキストに集中しようとしていましたが、すぐにそれではだめだと思いなおし、従来の作業モードに戻しました。

 私の翻訳のやり方として、最初はとにかく一字一句を漏らさないようひろいあげ、粗訳を仕上げしまうことです。
 この仕事はインターネットがなければとてもできなかったでしょう。人名や地名の読み方はひとつずつネットでチェックしましが、今回は中国の地名、人名もかなりあったので、一部はどうしても英語表記がわからないものもありました。後のチェックのためにそれは漢字で残しておきましたが、この漢字がまた中国の漢字と日本の漢字と異なることも多く、入力する漢字を探すだけで時間をとられることもありました。
 これはもし日本語原文をテキストファイルでいただいていればオーバーライトできるのでかなり助かったのですが、もともと著者の承諾も得ないまま始めてしまったことなので文句を言える筋合いではありません。

 最初の粗訳を終えると(作業時間はおよそ一カ月あまり)、一章ずつチェックして明らかな間違いを直していきます。粗訳を終えたあとのこの作業は、比較的、楽しめるといってもよいでしょう。これを二回、三回と繰り返します。今回は様々なエピソードについても調べる必要のあるものが多く、調べているうちにまた別の興味がそそられていくことが度々ありました。
 数回、全文の見直しをしたあと、また一回目と同じように文字の取りこぼしがないか綿密にチェックしていきます。じつはこの作業が一番つらい。これは気分がだれているときには絶対できないので、必ず一日か二日、休養をとり、頭をリフレッシュしてから行うようにしています。そしてその後また一章ずつのチェックを二、三度繰り返します。

 それでもまだまだ完成ではありませんが、ここまでくるとそろそろ著者にお伺いをたててもよいころだと思い始めます。(ここまでの合計作業時間およそ3カ月)
で、これはやはり出版社に聞くべきだろうと小学館に長いメールを出しました。
結果は、なしのつぶて。
 ここで、「もうええわい」とすねてしまいました。

 数か月後、しかし、やはりここまでやったのだから、と今度は原稿をプリントアウトし「チャンネル桜」に送ってみました。当時私は「チャンネル桜」を見始めたころで、あまりこのチャンネルのことを知らなかったのですが、この番組で著者の阿羅さんがご出演されているのを見て、少なくとも原稿をわたすぐらいのことはしてくれるだろうと思ったのです。

 またもやなしのつぶて。ここで本当に「もうええわい」とふてくされてしまいました。

 ところが、原稿を送って4カ月ほどたったころ、ある日、とつぜん著者の阿羅さんからメールをいただいたのです。いや、本当にうれしかったです。

 何度かメールのやりとりをした後、阿羅さんは「史実を発信する会」の茂木さんに相談した結果、そこでネイティブチェッカーにチェックしてもらいながら一章ずつ発表し、出版の機会を探ろうということになりました。

 そうなると電子ファイルを茂木さんにお渡しする前に、本格的な修正をしておかねばなりません。
 基本的なところで階級名の統一など、これもかなりの修正にのぼりましたが、大変だったのは日本名の表記です。私は英語と同じようにファースト・ネームの次にサーネームとしていたのですが、昨今の基準では日本語と同じように姓を先にするようになっているそうなのです。
 個人的には私もそのほうが好ましいとは思うものの、この場合、すでに入力済みになっているものですから、これをひとつずつ変換するのは本当に大変でした。こういうのは最初からそのように入力していたらなんでもないことなのですが、なにしろ数が膨大で、しかも置換がほとんどできないのです。だって一回きりの人名も山ほど出てくるのですから。今回の翻訳で一番大変だったのはこの作業だったかもしれません。
「一部、まだ修正漏れがあるようですが」と、茂木さんに指摘されたときは、思わず、くすん。だってぇー、と心の中で愚痴ってしまいました。

 そういう修正作業を終えたうえで、全体の段取りとして、茂木さんにチェックしていただいた上でネイティブチェッカーのハマさんに見てもらい、最後にもう一度私も目を通すという形で一章ずつ進めました。

 茂木さんもハマさんもおそらく超ご多忙な方々だと思いますので、やむを得なかったと思いますが、正直なところ一章ずつ進めていくというやり方は私にはかなり苦痛でした。翻訳作業の苦痛というより阿羅さんのお手元に届くまでに一年近くかかってしまい、それだけでくたびれてしまっていたのかもしれません。

 私としては茂木さんのところで仕上げてくださってもよかったのですが、送り返していただいてみると、ん、原文と違う、というところが、ほんの数か所ながらございました。些細なところなのでどうということはないのですが、原文と違ってしまうのは少し不思議に思えました。元訳がわかりにくかったのかもしれませんが、こういうこともあって茂木さんは私に戻すようになさったのでしょう。
 英語としては最終的には非常に洗練されたものになりました。
 また中国語の部分は私の手にあまるところが多々ありました。関内作戦というのがまさかGreat Wallのことだとは考えもつかず、ネットで調べることも後回しにしておりました。要するに軍事のことはまったく無知だったのです。軍の階級など、かの山下清画伯の「あの人は兵隊さんでいったらどのくらい偉いの?」ぐらいの知識でした。ただ、まったくの無知ゆえに生半可な知識に頼ることはなく、その都度階級表でチェックしていました。こういうことは機械的に行う習慣が身についております。

 話の中には様々な人物が出てきますが、これは外国人は当然のことながら日本人でももはや馴染みのない名前になっていることも多いでしょう。こういう場合、ある程度の補足は必要なので、私は「児玉誉士夫」という名前が出てきたときはその後ろにfixerと補足していたのですが、茂木さんはそれをgangsterと変えていたので思わず笑ってしまいました。

 翻訳に際し、私は思い切り段落をとりました。この本は談話が主体になっており、耳で聞けばうなづけることも、背景となる知識をまったくもたないものにとっては話が飛躍しているように思えることが多々あったからです。
 電子版で再版されるときは日本語版もこのことを考慮してほしいと思います。読みやすさという点でも重要ですが、とくにこの本を読むときは意識的に「間」をもたせる必要があると思うのです。何気ない一言の中にすら、そこに含まれる情報量が半端ではない量なのですから。

 段落がないと、文字がつるつるすべってそこにある情報量をつかみきれない、私はそれを懸念します。

 インターネットでわからないことを調べているうちに次から次へと別の事柄がつながっていきます。この本は翻訳をする前に何度か読んでおりましたが、翻訳の速度で読み返すと見えるものがまったく異なってまいりました。最初は意味が読み取れず、文章に飛躍があるのではないかと思っていた部分も、いったん理解すると、なぜこんなことが理解できなかったのかとすら思うようになってきました。

 著者は非常に克明に軍の日程を追っています。「第四十七連隊はコレラが発生してしばらく嘉善にとどまってますが」などと、自ら語り手の記憶を思い起こさせている場面がありますが、阿羅さんは入手可能だった資料を丹念に読み込んでおられたのでしょう。阿羅さんが追っていた克明な日程を私も追うことにより私の中で確信が得られました。

 先述のように私はまったくの無知からスタートしました。チャンネル桜の南京事件の特集さえ、ごく最近見たぐらいです。これは松井大将の南京の入城式を撮影したフィルムで、これを見たとき私は思わず懐かしいような気持ちになりました。何か月もこの48人の方々の証言と暮らしてきたものですから南京の風景があたかも自分がすでに見てきたもののように思えたのです。映されているひとつひとつの風景が「そうそう」と頷けるものだったのです。

 後追いできるのがインターネットの利点だとつくづく思います。ただ、無知の強みとでもいいましょうか、翻訳の前にこのフィルムを見ていなくてよかったとも思います。このフィルムを先に見ていたら、決して翻訳しようという気にはならなかったでしょう。「あ、こういうのがあるんだ。これがあるならいいか」と思っていたかもしれません。

 後に東中野修道氏らによる南京事件の写真検証も拝見しました。これはこれで非常に興味深いものでしたが、私の場合、さきに阿羅氏のご本を読み込んでいなければおそらく半分も理解できなかったでしょう。

 この南京事件はあまりにも政治的になりすぎて判断の目が狂わされてしまいがちです。私は私自身で南京市民の虐殺などなかったという確信を得ましたが、YouTubeに私の感想をアップしたところ、たった5人しかいないビジター(うち2回か3回は私自身です)の中で、早速否定的なコメントをいただきました。本の内容について具体的な指摘をするでもなく、どなたか偉い人がこの本は信頼できないと言っているというコメントです。私は「私はあなた様を説得できませんが、あなた様も私を説得することはできません」とご返事しました。

 私はユネスコの記述も見てみましたが、証拠となる文書は日本軍に破棄されてしまった、という記述が何度が出てきます。アーカイブというのも開こうとしましたがリンクもありません。少なくとも私のような一般人にわかるような証拠、検証できるようなものは見当たりませんでした。

 私は、様々な観点から南京事件は政治的プロパガンダだと思うに至りましたので、この問題については自分自身で確信が得られたということで満足することにいたしました。なにしろ昨今の森友学園問題や加計学園問題を当初から追っていて、事実というのがかくも歪曲化されていく過程を日々見せつけられているのです。この現代においてさえ。そうした状況の中でメディアや彼の国が束になってかかってくるものに個人が太刀打ちできようはずもありません。けれど、私は彼らに対して何の力もありませんが、彼らもまた私を説得することはできません。私のYouTubeで否定的なコメントを残した方に言いたかったのはそのことです。私は私自身で調べ、確信するにいたったということです。

 全体的な話として、この時代を理解するにあたっては、その当時中国はまだ国家としての体をなしていなかったということをまず頭に入れておく必要があるでしょう。ともすれば現代人はこの時代の中国を今の共産主義国家の中国と重ねてしまうきらいがあるようですが、そもそも日本軍が南京で戦った相手は蒋介石率いる国民党軍だったのです。その国民党軍の首謀者たちはは日本軍に攻撃される直前にあたふたと城から逃げてしまっていた。すでに裕福な人々はもっと前に脱出しており残っていたのは貧しい市民たちだけでした。

 いったいこの残された民衆を守ろうとした軍隊などあったのでしょうか。共産党軍はかれらのために何もしなかったではありませんか。それをいまになって日本軍の虐殺があったとというプロパガンダを繰り返し、あたかもかれらの代弁者のようにふるまっているのです。天安門事件を否定する共産党国家が、国民党軍に見捨てられた民衆の代弁者になりうるというのでしょうか。

 いずれにしろ、この時代の民衆たちが共産党軍にしろ国民党軍にしろかれらが自分たちを守ってくれる軍隊だなどと思っていたとは考えられません。男子ならせいぜい軍に徴兵されるのが関の山でしょう。

 

 話が前述の松井大将の入城式に戻りますが、まだ御覧になっていない方は、戦線後方記録映画「南京」のビデオをご覧ください。ここでは市民たちが日本軍から良民証をもらおうと行列の割り込みまでしようとしている光景まで映し出されています。

 この映画は無論日本の陸軍省海軍省の肝いりで作られたものに違いないでしょうが、当時上海のガーデンブリッジのところで上映されていたという反日映画と比べてみてください。当時中国では(ひょっとすれば今もなお)日本人の目からみればとても日本人と思えないような役者が日本軍人の恰好をして残虐のかぎりをつくすといった映画が常時上映されていたのです。そのような映画と戦前の日本映画を比べてみるだけでも何かが見えてくるはずです。

 例えば1942年に発表された「間諜未だ死せず」。この中ではハンサムな日本人が王さんという中国人スパイの役をし、そのスパイも「国のためにつくす愛国者」として描かれているのです。方や中国では悪逆のかぎりをつくす日本人としてしか日本を描くことはできないのというのに。この中ではアメリカ人ですら日本人が演じているのでいささかとまどいますが、当時としてはやむをえなかったのでしょう。映画の中でも「お人好しの日本人」というセリフが出てくるのでおかしくなります。

 さらには1940年の「支那の夜」。これはなんと、李香蘭演ずる中国娘と長谷川一夫演ずる日本人船長との甘い恋物語ではありませんか。

 これらはすべて検閲が入っていたはずですが、検閲があろうがなかろうが、私たちは中国人を貶めるようなプロパガンダ映画は作らなかった。そんなえげつない映画を大衆は見たいとも思わなかったでしょう。中国の人のみならずこのことを理解する外国人はそう多くはないのかもしれません。

 

 残念ながらフィンランド人の夫もそれを理解できないひとりかもしれません。なにしろ南京問題はあまりにも複雑すぎて、単純化されたメディアの主張をくつがえすだけの理解を得られることはできませんでした。忘れたころまた論争になってしまうきっかけはフィンランドの主要新聞に何度か取り上げられる南京虐殺の記事です。最近の例でいえば当時南京にいたというフィンランド人の宣教師の日誌です。

 なぜ、フィンランドの新聞がこの現代において何度もこれを取り上げるのか。また取り上げるにしても果たしてそれを検証しているのか。ただ発表されたものを紹介するだけなら朝日新聞と吉田清治氏の場合と変わるところはありません。そもそも写真というものがいかに恣意的に用いられるか、写真家であった語り手のおひとりが自ら語っておられます。この宣教師がそう信じたことは間違いないのでしょうが、彼女が信じたから事実だということにはなりません。この当時の欧米の新聞はすさまじい反日プロパガンダを繰り返していたのですから。

 この主要紙は残念ながら角度とメタタグをつけられた日本の新聞を鵜呑みにしているのでしょう。反日のプロパガンダは今もなお行われているということです。新聞が変わらないかぎり夫も変わることはない。いまはもう私はあきらめています。さらにいうなら日本の某元総理たちの中国詣でをみていれば、フィンランド人に理解を求めるどころの話ではありません。

 世の中には問題の「解決」よりも問題の「引き延ばし」のほうに力を注ぐ人がいかに多いか、思い知らされる毎日です。

 気分は晴れませんが、しかしながら、幸いにもインターネット時代に入り、私のように自分で調べてみようと思う人々も増えてきました。阿羅氏、その他、この問題に取り組んでこられた方々にとっては本当に長い道のりだったでしょう。しかし、いったんは絶版とされていたこの著作が再版されたという事実、そのこと自体が時代の流れを示しているのかもしれません。

 最後に、 

 最終章の校正が終わったあと、まだ気力があることに気が付いて、そのまま次の翻訳に移りました。

 胡桃沢耕史氏の「黒パン俘虜記」です。すでに何度か読んでいましたが、これもまた翻訳のスピードで読むと、見えなかったものがいろいろ見えてきました。とくに日本人48人の証言のあとでしたので、余計に理解が深まりました。

 これまた同様に三か月あまりの翻訳作業後、プリントアウトした原稿を発行元の文芸春秋社に送りました。残念ながら著作権をお持ちのご子息は英訳出版を考えておられない、とのご返事を文芸春秋社の担当者の方からいただきました。著作権保持者がそうお考えならどうすることもできません。せめてご本人からご返事をいただきたかったのですが、 原稿がお手元に渡っているのならいつか使い道も考えていただけるかもしれないと期待するしかありません。「黒パン俘虜記」の書評については別途ページをごらんください。

 なお、48人の証言者の方々のお話に対する私のコメントは下記をご覧ください。

「南京事件 日本人48人の証言」書評


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 <追記>

さらにまた、これも最近Youtubeで見たものですが、昭和18年、NHKが作成した「大東亜会議」のビデオです。興味深いですね。チャンドラー・ボースをはじめ各国の要人の姿など、これらの国々の人々にとっても興味深いものがあるのではないでしょうか。

https://youtu.be/5o_bim1uoWo

 もうひとつ、イギリス人ジャーナリスト、ヘンリー・ストークス氏のメッセージもご紹介しておきます。

https://youtu.be/dmvb18ILMwQ

 もっとも、私は阿羅さんからお聞きするまではヘンリー・ストーク氏のお名前すらまったく存じ上げませんでした。私は本好きではありますが、三島由紀夫や川端康成などといった作家はどうも苦手で、そういう意味からも阿羅さんや茂木さんとはまったく別の世界の人間だといえるでしょう。

 ですから、私は茂木さんが主宰されている「史実を発信する会」とはなんの関係もありません。なにしろ私は三島由紀夫より池波正太郎のほうがはるかに滋養になると思うようなまったく場違いの人間であり、茂木さんや阿羅さんをはじめとするまっとうな検証家の皆様とは異なり、この本の翻訳は単に興味にかられての行動でした。私がここに記していることはすべて私個人の見解と感想であり、阿羅さんや茂木さんにご迷惑がかかるようなことがあればそれはまったく私の本意ではありません。(昨今はネットの世界でもあちこちで諍いが生じるので何か書くたびに気が気ではありません。幸か不幸か私のホームページはビジターがほとんどいないのでそんな心配は杞憂だと思いますが)

 それはともかく、世の中は広いので、私のようなタイプの人々も少数ながらいらっしゃるでしょう。そのような方々が私のような入り方をしてこの本に接し、この時代への道を広げてもらえればこんなうれしいことはありません。この本は検証のためだけでなく人間の記録文学としての様相があるということを強調しておきたいと思います。


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