胡桃沢耕史 「黒パン俘虜記」 書評 

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 私は阿羅健一氏の「南京事件 日本人48人の証言」に続き、この「黒パン俘虜記」も精読いたしました。つまり英訳したのです。

 本書は翻訳の前にかなりの期間を隔てて3度ほど読んでおりましたが、読むたびに胸をうたれました。翻訳の速度で読み直してみるとその感動はさらに生々しく迫ってきます。

 私は作者の経歴などというものにはあまり興味をそそられないほうなのですが、今回は翻訳に携わったことでもあり、最低限の知識はもつべきだろうとインターネットで調べてみました。

 その経歴を拝見して最初になるほどなあと思ったのは著者が戦後まもなく別のペンネームでポルノ作家として活躍されていたということです。

 黒パン俘虜記の中では人々はつねに飢えとの闘いに迫られます。私はその描写に触れるにつけ、ああ「性」とはまさに「生」「いのち」なのだと実感させられました。男たちは「白パン」という言葉を聞いただけで性衝動にかられるのです。迫りくる飢餓と向かい合う日々の中で「性、いのち」を感じるのは「女」ではなく「食い物」なのです。

 私は戦後生まれですが、子供のころからまだ戦後の話は折に触れ耳に入ってきました。

「ひもじさと色の欲とを比ぶれば、恥ずかしながらひもじさが先」

 うろ覚えですが、そのようなざれ歌も聞いたことがあります。「兄さん、そのおにぎり一つくれたらあたしを抱いてもいいよ」と言われた男。片手にもったおにぎりと女の顔を見て一瞬迷ったものの、「悪いな」と、残ったおにぎりをあわてて口に放り込んで早々に立ち去った。

 人々がみな飢えていた時代のことです。現代人には想像もつかないことかもしれません。

 捕虜の収容所では人々が毎日ばたばたと死んでいき、屍体は井桁に組まれて酷寒の中に放置される。著者はタナトスとエロスを文字通り体現したわけです。銃口にさらされ、著者のエロスは最高度に純化されます。そこで思い浮かぶ女の顔は平均的な日本娘の顔だったといいます。自分が直接知っている具体的な娘の顔は後になってまだ命があるという多少の安心感が出てきたときに初めて現れてきたそうです。かくも過酷な環境においては女はあまりにも非現実的であり、性衝動で思い浮かべるのはトンカツという、作者ならではの自虐ユーモアが冴えわたります。このようにエロスを極めた著者がポルノ作家として力量を発揮するのは当然のことといえましょう。 

 この「黒パン俘虜記」が直木賞に選ばれたとき、選考委員の中でひとり城山三郎氏が「文章がいやだった」と反対されたと聞きました。いまあらためて89回直木賞の選評を読んでみると同じように文章に灘をつけている選考委員は他にもいました。

 「文章がいやだった」という言い方を聞いたとき、「あ、それはわかる」と、思わず相槌を打っておりました。けれど翻訳し終えてつくづく思うのは、見たもの、経験したもの、感じたことをすべて書き尽くそうと思えばこういう文章になってしまうのかもしれない、ということです。かくもすさまじい飢えの恐怖を美文で伝えることはできない。作者の細部にわたる描写には「すべてをあますところなく伝えたい」というもどかしさを感じます。

 ついでながらこの直木賞の選考委員たちの批評を見て首をかしげてしまいました。ある作家は「著者には戦争に対する批判の目がない」という。黒パンの配給に一ミリの狂いも許さない囚人たちに戦争批判などする余裕があろうはずがない、そんなことは生命の危機を感じなくても済む状況においてこそ許されるのです。私はこの本を読んで「ああ、戦争とはいやなものだ」というありきたりの感想しかもたない作家の知性を疑います。そして誰も最後の赤化教育に触れていないことにも失望しました。

 私は「黒パン俘虜記」を読む前に「天山を越えて」を読んでおりました。この「天山を越えて」はフィクションですが、この中に主人公が新人文学賞の候補になったという出来事があり、その選考に対し皮肉っぽく記述している部分があります。私はこれを直木賞の選考委員に対する皮肉だととったのですが、発行時期をみると「天山を越えて」のほうが先になっているのでちょっと不思議に思っています。その描写があまりにもぴったり当てはまるものですから。 

  ついでながら、インターネット時代というのは過去の文学賞の選考批評まで読むことができるのかと感心しました。優れた作家が優れた批評家であるとは限らないということもわかり、文学賞などというもののいい加減さが浮き彫りにされた気がしています。 

 さて、俘虜記にもどりますと、捕虜になるだけでも異常な出来事だというのに、その収容所の中で事態はまた思いもよらぬ展開になります。たった一夜のうちに支配者と被支配者の構造ががらりと変わってしまうのです。そのあっけないこと。「力」とはこういうことか。ひょっとしてこれまでの世界の歴史もこんなふうに力によって作られてきたのかもしれない、ヤクザみたいな人間たちが何世代か後には貴族になってしまったり、と、著者の観察はまことにユニークです。

 最初の収容所で著者は支配者に娯楽を提供することにより余分の黒パンを得ることに成功します。生き延びるためには自らの才能を生かしてエンターテイナーとしてふるまっていこうと決意する著者。それは自分自身の楽しみともなりますが、慎重な著者はネタ切れをふせぐために綿密な計算を怠りません。

 著者はすぐにかれらのおだて方を会得します。「七卿落ち」などという言葉は聞いたこともヤクザたちですが(私も知りませんでしたが)、「ご存知のように」と言われると無言でうなづき話を促します。ヤクザだからヤクザ映画が好きなはずなのですが、意外にも純愛ものを好んだりするのがおかしい。

 演芸で得た黒パンはここでは通貨に匹敵します。囚人たちを見張っているモンゴル人たちも同じように貧しい。黒パンは彼らにも貨幣として機能します。

 すさまじいエピソードが次から次へと続きますが、著者の目は冷徹です。著者のユーモアは冷徹だからこそ到達しうる境地でしょう。それはひとつには著者が若かったということにも関係するかもしれません。想像を絶するこのような経験をとりあえずそういうものだと受け入れる。20歳という若さの強みは記憶力と同時に状況への順応性にも示されている気がします。むろんそれらはすべて著者の個性と才能によるところのものですが。

 バイカル湖に沿って走る後半の汽車の旅は私も一緒に楽しみました。しかし、着いたところはまた別の地獄です。

 しかし、つくづく思うのは、この赤化教育のやり方というのは、小道具こそ違え、いまもほとんど変わっていないような気がするということです。冷静なはずだった著者も上級の士官に罵声をあびせるときはつい本気になってしまう。それはヤクザたちにやすやすと取って代わられたときの上官たちの姿を見ていたせいでしょう。

 一方、階級が高ければこのようなつるし上げに合うと知ってあわてて階級章を捨てる男。その階級章は黒パンと引き換えに手に入れたものでした。

 著者は人間性のそのような偽善や虚栄も暴いていきます。天皇陛下を侮辱する漫画に憤る男。そんなものはこちらの印刷所で勝手に作ったものだ、気に入らないのなら面と向かって抗議すればいい。そういわれて抗議できるはずもない。帰還を抵当にされている今、赤化教育には絶対合格しなければならないのです。口先だけなら言うな、著者はそう言いたかったのでしょう。

 かたやひっそりと片隅で「生きていてさえくだされば」と安堵している人々の姿もとらえています。

 ヤクザの恨みを買い、日本を目前にして海に落とされてしまう「オペラのおっさん」は、不正は追及せねばならない、と信じたナイーブな共産主義者でした。この赤化教育は何かおかしいと思いながらも、もとより共産主義に親和性を感じていたからこそ思い切って声に出したのでしょう。戻ってきた答えは双方ともよくやったという評価だけ。そんなものは彼の命を救う何の手立てにもなりはしません。現実の「力」の前には。このナイーブな共産主義者に同情しつつも、自らの立場の危険さに対してあまりにも無防備だと著者は思ったはずです。

 自分の命は自分で守らなければ生きていけない世界では、肉親の父と息子がわざと別々のグループに入るように仕向けることもありました。支え合っていては生存できないとわかっていたからです。同じような例はたしかヴィクトール・フランクルの「夜と霧」の中にもあったような気がします。

 このオペラ歌手のエピソードもつらいものですが、もっとつらいのは、「ノモンハンの生き残り」かもしれない通訳の男です。二度も命を助けられた著者は帰国に際し「誰か伝えたい人がいるのなら」と申し出ようとしますが、彼は「早く行け」と黙って手を振るだけでした。日本人であることを捨て、このように数奇な運命をたどった人は他にもいたかもしれません。生き延びるためにはそうせざるを得なかったとはいえ、自らの目の前で帰国できる人々を見るのは胸がちぎれるような思いだったでしょう。

 さて、訳し終わって私がもし「文章がいやだった」という批評に与するとすれば、それは「テンポがよすぎる」ということでしょうか。これは語りの達人である著者の才能であり、それゆえに繰り返し読んでも飽きさせないのですが、反面、事柄が並列化されるきらいがあり、ついその意味を見過ごしてしまいがちです。

 話の中によく「民団」という言葉が出てくるのでインターネットで調べてみるとどうもしっくりこない。後にこれは「居留民団」だということがわかります。この居留民団の人々は兵士ではないので、肉体労働に耐えうる体力がないうえに年もいっている。そうでなくとも過酷な状況の中でさらに厳しい運命にさらされるわけです。

 しかし、そのような民団の中で、幸運にも夢のような病院勤務に回された人たちがいるのです。

「そのような仕事は、早くにこの病院に入ってきた協和会系の民間人に独占されているから、もう割り込めない。乙幹君は協和会っていう組織を知っているかね」

「いえ。ただ日本の大政翼賛会に似た、政府直属の政治団体だと聞いたことがありますが」

「それも一面の真実だが、大体は若いとき左翼運動にかぶれて、日本にいられなくなった人々が作ったものだ。満州へやってくると過去をかくして百八十度転換、国家主義運動の尖兵になった。どこまで本気か知らないが、ぼくは時代によって自分の思想を変える人は好きではない」

 日頃から腹に据えかねていた竹田軍医は思わず本音を漏らしますが、頭が共同便所のことで一杯の著者はそれ以上掘り下げる気はなく、ひたすら話題をそっちにもっていこうとします。

「そんなに皆と一緒の便所に座りたいかね」

「せめて一日に一度、他の人々と接触しないと、ここにたった一人で置き去りにされてしまったようで不安でたまらないのです」

「そんなものかねー。人間ってのは」と、読者の頭もすっかりそっちに占領されてしまい、気が付くと先ほどの会話はすっと頭の中を素通りしてしまっています。

 しかし、左翼運動にかぶれて日本にいられなくなり、満州で過去をかくして今度は国家主義運動の尖兵になったという人たち。かれらはシベリアから日本に帰って、また左に向かったのではないか、というのはうがちすぎでしょうか。

 こういう細かいところは翻訳の速度だったからこそ、じっくり読み取れたのだと思っています。

 本の刊行は1983年、戦後かなりの時を経て執筆されたわけですから、本の中では当時の事象の意味はかなり整理されたものになっているでしょう。おそらく、何年もたって、あ、あれはそういうことだったのかと思われたことも多々あったと推察します。戦後、極限の物不足の中で帰国船の調達のために走り回った人々に対するさりげない感謝の言葉遣いなど、むろん後で知ったことに違いありません。

 かなり前にたしか養老孟司氏と著者との対談記事を読んだ記憶があるのですが、養老孟司氏はさすが解剖学者だけあって解剖のところに特別興味をもたれたようです。

 竹田軍医が助手となった著者に仕事を説明します。

「何か国連に出す書類に要るらしい。まず死因を記載するのだが、書類には栄養失調と書くのは禁止されている。大体チブスか怪我による出血多量か、どちらかにしておく。次にその証拠として、死亡時までに健全な内臓を維持していたことを科学的に明らかにするため、心臓、肝臓、腎臓、三つの臓器の目方を測るのだよ。つまり決して栄養や、物資不足、管理上の不注意で俘虜たちを殺したのではないというわけだ。君に早速、今からその計量を手伝ってもらう」

 律儀な竹田軍医はその仕事を几帳面に遂行していきます。おそらく誰にも注目されないような報告書であっても、何事も正確に行うというのが竹田軍医の行動原理になっているのでしょう。それにつけても今に始まったことではありませんが、もうその時期から国連というのはなんといいかげんな組織であることか。けれど国連のお墨付きをもらうというのは重要事なのですね。

 ついでながら、「天山を越えて」の中でGHQについても著者が触れている部分があります。

「この文書は、私が預かり、あんたに見せるだけで、渡してはいかんそうだ。つまり、今度のアメリカの占領政策の中で最も重要なテーマとして日本へ持ち込んできたのは、言論や出版の自由と思想の自由だからだ。いささかでもそれに抵触するふるまいを、アメリカ側が日本にしなくてはならないときは、その証拠を残してはいけないということになっている」

「案外ずるいことをやるんですね」

 作者の皮肉がよく効いている部分ですが、さりとて作者はこぶしを振り上げて憤るようなことはいたしません。言ったところでどうなるものでもない、けっきょくアメリカはいわば宗主国のようなものだ、という現実認識がしっかりできているからでしょう。

 今あらためてみてみると、この記録文学と「天山を越えて」の執筆時期がほぼ重なっていたというのもなんとなくうなづけます。この二冊を執筆するまでに作者はそれだけの時間を要したということでしょう。

 

 翻訳に際しては作者が触れている映画や芝居なども興味半分ですべてチェックしました。どれも時代を捉える上で大変有用でしたが、一か所だけアメリカ映画で作者が年代を勘違いされているのではないかと思われるところがありました。ま、たいしたことではありませんが。

 

 最後に、

 本の中では触れられていませんが、著者の帰国は他の人々と比べればかなり早い時期だったと思われます。この後に帰国した人々は、舞鶴港に到着したとき、赤化教育を受けてきたと恐れられ、排斥の憂き目にあった人もいるということを最近ネットの中で知りました。

 これはもうなんという不条理。

 著者はそのような方々のためにもこの作品を書いたのではないかと想像しております。

 

 翻訳は残念ながら著作権保持者のご子息のお許しが出ませんでした。いつの日か世界に向けて出版できるときがくることを願っております。

 そして著者がもしご存命なら、現在のウィグルの人々に対しどのような思いをもたれるでしょうか。


 以下、私が作ったカバーページのみご紹介します。

 

Dark Bread Prisoner's Note

by Kurumizawa Koshi




War is beyond all imagination



Japan-Soviet non-aggression pact (a five-year neutrality agreement, which was concluded in 1941, two years after the Soviet-Japanese Border War as known as Nomonhan Incident) was broken on August 9, 1945 and the Soviet Union invaded Manchuria.

Then the Mongolian Republic joined the Soviet Union with 20,000 soldiers.


The War was over on 15th August.

575,000 of Japanese soldiers, estimated by Ministry of Health, Labor and Welfare, became war prisoners and were sent to Siberia.

Among them 20,000 prisoners were sent to Ulaanbaatar.

The above 20,000 prisoners were divided into 10 groups, that is, 10 labor camps.

The author was sent to the one of 10 camps, where,

extraordinary things that were beyond all imagination, had happened.

 

 

Fate leads the willing, and the unwilling draws” – Rabelais

 

translated by maya gröhn


黒パン俘虜記 地図



Table of Contents


Chapter 1  Promise of the Dictator


Chapter 2  Procession in White


Chapter 3  Holiday of Prisoners


Chapter 4  I, not Pray in the Dawn


Chapter 5  The Night at the Border


Chapter 6  Cattle Train


Chapter 7  The Last Interrogation


Chapter 8  Ship for Motherland



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