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プロフィール 翻訳者 グローン摩野の職歴

 翻訳という商売を始めてからいつの間にか数十年もたってしまいました。それ以前は英語とはとくに関係のない仕事に多々携わっておりましたが、しかし、産業翻訳者という立場からふりかえってみると、そういった数々の経験もまったく役に立たなかったわけでもなかったなあ、と思うことがしばしばあります。

 産業がこれほど多様化している中、英語においても日々特定のビジネスに応じた使い方が生まれ定着していくのは当然です。末端とはいえ様々な職業にふれたことは、ある意味でビジネス環境における状況把握能力を鍛える結果となり、それはお客様の置かれている背景を理解する上で、多かれ少なかれ発揮されているのではないかと感じております。

 生まれは兵庫県の尼崎市。帰属意識では兵庫県というよりむしろ大阪に近いエリアです。年齢無用といいたいところですが、1クラス55人、一学年700人以上という環境で育った団塊の世代といえばおわかりいただけるでしょう。

 大学紛争華やかなりし時代です。「大学がなんだ」とまで思っていたわけではありませんが、大学とはけっきょく縁がなく、勤労意欲満々で就職に臨みました。この時代は日本経済が急成長している時期でもあり、どの企業もすさまじい求人難に陥っていました。そのおかげもあってか、私はさほど苦労もせずある当時業界第三位とされていた大手の生命保険会社に就職いたしました。従業員は全国で数千人規模、大阪の本社ビルだけで二千人程度の人々が働いていたと思います。なにしろ私が配属された契約課もひとつの課だけで100人以上の従業員がいたぐらいですから。

 契約課という名の通り、そこでは保険の査定、証書の発行、そして契約者名簿の管理などを行うのが私たちの仕事でした。私が配属されたのは保険契約者の名簿管理の仕事です。契約者の名前は1件ずつカード化され、ア行、カ行、サ行、と順々に独特の索引で振り分けられたキャビネットに保管されます。新規契約、既契約、既往症の有無などこれをもとにチェックしていくのです。正直いってこれほど単調な仕事はありません。ほとんど女性ばかりの職場ですから気楽といえば気楽なのですが、ばりばり働くつもりで入ったものにとって残業といえるほどの残業すらめったにない労働条件は、今でこそ「ぜいたくな」と言えますが、それすら不満に思えるほどエネルギーをもてあましておりました。

 むろんこれは大昔1968年の話ですよ。こういう仕事は今は当然コンピュータの役目です。データ処理という意味ではこれほどコンピュータが真価を発揮するところもそうないでしょう。

 しかし、手作業とはいえ、それまでの手順はすでに完全なひとつのシステムとして確立されており、コンピュータ化は別のシステムへの乗り換えにすぎません。システム化されていないものをコンピュータ化するということになれば、さらに途方も無い作業を必要とするでしょう。

 余禄というべきか、私はここで人名というのがどれほど多彩なものであるか、実感いたしました。

 ところで、営業の人々がそれこそ大変な苦労をして売り込んでいく保険契約というのは決して支社や営業所では締結されません。お客様の署名捺印をいただいた契約書は必ず本社に送られ、査定を受けてから後、正式に締結され契約書が発行されるのです。

 保険には無診査のものもありますがある程度の保障を希望する場合にはやはり医師の診断が求められます。報状と呼ばれていたその診断報告書は契約書とは別のルートで集められ、大半は契約書と同様、締め日に一括して本社に送られてくるのです。

 ここで私たち索引チームは一斉にその書類の山に飛びつき、独特の手順に従ってア行、カ行、サ行、と選り分け、それからそれらの契約書を別便で送られてきた診断報告書とセットにしていくのです。このときは各チームがいかに早く終えるか競いあうことになります。

 なにしろ、刺激のない仕事ですから、ついこんなことにもむきになったりして、今から思えば恥ずかしいかぎりです。

 しかし、さすがに毎日このような仕事ばかりしていると、少しは頭を使いたくなってきます。ある日私はふと思いました。なぜ契約書と報状を別々のルートで送ってくるのだろう。契約をとったのは支社の営業の人なのだから、その人たちが支社で診断書をつけて本社に送ってくればずっと手間がはぶけるだろうに。なんだってこんな無駄なことをするのだろう。

 ときどき、報状がどうしても見つからず、いつまでたっても契約書だけが手元に残ってしまうことがあります。その逆に報状が残ってしまうケースはほとんどなく、たまにそんなことがあったときはリーダーの人がおかしそうに話しているのを聞きました。

 その意味がわかるようになるまでにはかなりの時間を要しました。

 契約書と報状を別ルートで処理するということの意味にいたっては、さらに倍ほどの時間がかかりました。

 保険のお仕事をなさっている方なら私の話していることがどういうことかよくおわかりだと存じます。


 また、保険会社には数理課とか計数課と呼ばれるセクションがあります。このセクションには東大や京大の理数科出身の方たちが数多く配属されていました。

 保険というのは集団によって個々の危険の分散を図るものであり、そのリスクの計算には複雑な計算が伴う、というようなことは当時の私にはまったく理解できておらず、いったいこの人たちはどのような仕事をしているのだろうかといぶかったものでした。

 後年、アクチュアリー(actuary)という言葉を知ったとき初めて、ああ、と納得がいきました。

 私はこの会社で成人式を迎え、社長から記念のアルバムをいただきました。

 各課にはいつも社長その他重役の方々が社内で執務中かどうかを知らせるランプが設置されていましたが、むろんそんなものは私たちには何の関係もなく、社長の姿を間近で拝見したのは後にも先にもその時だけでした。戦争による負傷で足を悪くされたと知って、不遜ながら、父と思いを重ねることがありました。

 平日は4時に終了というまたとない労働条件ではありましたが、仕事の単調さに耐え切れず、ついに生命保険会社を飛び出して今度は従業員50人足らずの小さな広告代理店に勤め始めました。

 主として朝日新聞社の仕事をしている代理店です。ただ、テレビの影響が大きくなりつつある時期でしたから、私が入る頃は重点を次第にテレビに移しつつあったようです。

 私の仕事はむろんアシスタント的なものにすぎませんが、その中のひとつに、「代理店が買ったテレビのCM枠がちゃんと放送されているかどうか」をチェックする仕事がありました。つまりテレビを見るのが仕事です。番組ではなくCMをチェックするわけですが、CMを見るには番組も見なければなりませんから、けっこうな仕事だと思われるかもしれません。

 けれど、これがまた、いったい誰が見ているのだろうと思われるほど退屈な番組。CMなんてちゃんと放送されるに決まっているのに、どうしてわざわざこんなことを、と、あくびをかみ殺しながらのチェックです。

 ところが、一度だけ、そのCMが本当に間違っていたことがありました。そんなこともあるんですね。

 営業マンはすぐ放送局に抗議しましたが、幸いというべきかクライアントはご存知なかったようで、けっきょくは「あらら、ごめんなさい」だけで終わったようです。

 今ならとてもこんなことではすまないでしょうね。 

 広告代理店では代理店会議に出席したり(そこでゴルゴ13の試写会を見たこともありました)、イベントのアシスタントを勤めたり、一見華やかに見えるものの、もうひとつ実質的な手ごたえを感じることはできません。

 はたしてこのままこの仕事を続けていってよいものだろうかとまた悩みはじめた頃、知り合いから人手が足りないので来ないかと誘いがかかりました。

 仕事というのは労働組合の上部団体の専従職員です。この団体は伊藤忠(現イトチュー)や丸紅、住友商事など大手その他中小の商社を含めた労働組合の協議会です。

 そもそもまだ会社というものがどういうものかわかっていないときに私が労働組合の意味を理解していたはずもないのですが、これも何かの縁かとすぐ話に飛びつきました。

 労働組合団体の仕事で思い出すことといえば、やたら書類を作らされていたということです。私はいちおう支部の会計係ということで採用され、基本的な貸借対照表の作り方まで習ったのですが、組合というのは何しろ交渉シーズンになるととにかく目の回るような忙しさで、会計係といえどものんびりと計算だけしているわけにはいかないのです。

 春闘ともなると組合員向けのビラを印刷するオフセット輪転機はフル回転、役員会議に使う書類も山と積まれたまま青焼きコピーを待っています。

 青焼きと呼ばれたリコーのこの感光紙のコピーなど現在ではもう見たこともない方が大半でしょう。そのころゼロックスは出始めたばかりでまだまだ高値の花だったのです。輪転機のインクではどろどろになり、コピー液の交換ではべとべとになり、私はゼロックスに憧れました。

 さて、労働組合団体というのはもちろん会社ではありません。しかし、そこで雇われている者にとっては団体が雇い主になります。労働条件の改善を目的とする組合団体の労働条件は、はっきりいって賃金以外は劣悪でした。そこで職業病まで発生していたぐらいでしたから。

 いまとなれば商社で働く人々を会社とはまったく別の側面から観察できたのは得がたい経験だといえますが、それにしてもこの時期はあまりにいろいろなことが次から次へと発生し、ついにへとへとになったあげく辞めることを決意しました。この団体はその後幾多の変遷を経て今では加盟組合も組織もがらりと様相が変わってしまっています。

 労働団体を辞めて、さて、これからどうしようかというときに目についたのがなんと富士ゼロックスの営業所で事務員を募集しているという広告です。前述の通り、私はゼロックスには非常に思い入れがありました。それは生保に勤めていたときからです。

 そもそもその生保会社はお客様の契約書をゼロックスで印刷するというのがPRのひとつになっており、私は同僚がその機械を操作するところを見せてもらうたびにいつもうらやましく思っていたものです。

 コピーがオリジナルと同じように白い紙で出てくる - それはじつに画期的なことだったのです。

 おかしいですね。今はカラーコピーがコンビニでも簡単にできる時代です。

 しかし、私はいまだにあの時の感動をしっかり覚えています。

 コピー機はまるで手術室のような特別の部屋に納められていました。その大きさにも圧倒されました。大きなカバーがゆっくり下ろされ、オペレーターの同僚がおもむろにボタンを押すと、コピーがしずしずと出てまいります。その様子を私は息をつめて見守っていました。

 そういう私を見て同僚も誇らしそうでしたが、しかし、彼女はすぐ、「こんなもの誰だってできるわよ」と、いささかうんざりした顔つきで言い放ちました。ま、よく考えれば、いくらオペレーターというしゃれた名前で呼ばれていたとはいえ、毎日毎日、書類をセットし、カバーを下ろし、ボタンを押すというのが日課となればもはやとても面白いとは言っていられなくなってくるでしょう。

 とはいえ、そのときの私にとってゼロックスというのはオフィス界の最先端と思い込んでおり(これは実際その通りだったともいえますが)、御堂筋に面した本町の営業所に首尾よく採用されたときはやはり縁があるのだと思ったものです。思いが通じるということはあるんですね。

 当時、富士ゼロックスではゼロックスの機械を売るのではなく、レンタルという方式を採用していました。機械は決して売らないという方針です。そのころ、レンタルにすることの意味など私にはわかるはずもありませんでしたが、あとで知ったところによるとこれは減価償却における将来の簿価のことまで計算に入れた非常に緻密なビジネス戦略だったのですね。それを理解していたところでどうしようもなかったと思いますが、たまたまとった電話で「コピー1枚いくらなどという計算は性に合わん。いくら高うても買うというのになぜ売らんのや」と、お客様にねばられたときにはほとほと弱りました。

 営業所には営業マン以外にもカストマー・サービスというこれも当時としては非常に珍しい職種の大卒女性スタッフが配属されていたのですが、そういうときにかぎってオフィスには新入りの私以外だれもいないときているのです。

 なぜかこういう時のお客様は、いくら、「営業の担当者をお伺いさせますからどうぞお名前とお電話番号を」と、繰り返しても決して聞いてくださいません。電話が終わった後は汗びっしょり。切り終わると同時に営業マンやCSが帰ってくるのですからね。皮肉なものです。

 もっとも技術関係は別として、お客様からこのような電話が直接入ることはそう度々あるものではありません。オフィスでの私たちの仕事は諸々の雑用はいうまでもなく、契約書の作成、管理、そして機械の出荷などが主になります。

 機械は営業所とは別の府内の倉庫にあり、そこから出荷することになっていましたが、この機械の出荷が私たちオフィス・スタッフの悩みの種でした。

 契約のとれた機械を出荷するのは問題ないのですが、ゼロックスは出始めたばかりでまだ一度も目にされたことのないお客様が大勢いらっしゃいます。ショールームもあるにはありましたが、やはりお客様の職場で見ていただこうと思えばどうしても見本の機械を運び込む必要がありました。

 デモンストレーション、略して「デモ」と呼ばれたそれらの機械は営業マンの要請にしたがって順番に貸し出される仕組みです。

 ところが、問題は、機械の数もデリバリーのスタッフもかなり限られていたということです。

 そうなると、当然の成り行きで、各営業所間で機械の取り合いといったことが起こってきます。また、機械はあっても配車のスケジュールが調整できないといったこともしばしばです。

 お客様にショールームまでお越しいただき、機械を確認していただいた後で契約を締結し、それから機械の出荷を手配する - と、いうのは理想ですが、現実のセールスはなかなかそんなものではすみません。

 業界初の普通紙のコピーということで、私は座っていてもお客様のほうから来てもらえると思い込んでおりました。でも、ビジネスというのはどんなものでも決して甘くはないのですね。

 テリトリーのオフィスを一軒ずつ訪問し、営業マンはとにかく機械を置いてもらうよう説得しなければなりません。いったん機械が入れば成約率はかなり高かったと思いますが、そのデモ機がすんなりと入らない。なにしろ営業活動というのは予測のつかないことも多々ありますから、決まった配送スケジュールときっちり連動させるわけにはいかない場合だってあります。

 粘って、粘って、やっとここまで話をこぎつけたのだから、お客様の関心が高まっている間にすぐにでも機械を搬入したい - 営業マンとしては当然そう考えます。

 しかし、倉庫側は、「(機械が)あれば出す。ないから出せないと言っているんだ。できないものはできない。いつもいつも土壇場でスケジュールの変更を余儀無くされているこっちの身にもなってみろ」と、剣もほろろです。最後には双方が電話口で怒鳴り合いとなり、その交渉をとりもつ私たちコーディネーター側はどちらからも責められ泣かされました。

 実際、文字通り泣き出す人もおりました。板ばさみはつらい。制約理論を持ち出すとすれば、この時期はここがボトルネックだったといえるかもしれません。

 ま、しかし、創生期にはこのようなことはつきものです。 あれからもはや半世紀以上たって、ゼロックスはいまや英語でも日本語でも「ゼロックスする」と動詞として使われるまでになりました。

 私のほうは家庭の都合もありましてせっかく入社した富士ゼロックスもたしか二年そこそこだったと思いますが、退職してしまいました。

 その後、しばらくしてまた昔の労働組合の協議会に関連する知人から声がかかり、私はアルバイトとしてある中堅商社の組合に勤めることになりました。ここは、偶然ですが、私が始めて就職した中ノ島の生命保険会社の隣のビルにありました。

 私はいつも昼休みに屋上からこの商社を見ては、商社というのはいったいどんな仕事をするところなのだろうと考えていたものです。そんなことを考えていた私がそのビルの中に入っているのですから、これも不思議な縁です。

 ふと耳にする「がいため」などという言葉はずいぶんかっこよく聞こえたものです。また、商社マンというのはみんな英語がぺらぺらなのだと思っていました。

 この組合に勤めてかなりたってからのことですが、ある日、よく組合室に遊びに来ていた総務課の友人が、ああ、おかしいと噴き出しながら組合室に入ってきました。

「いまエレベータに乗ったらね、」 

 満員のエレベータの中に外人がひとり乗ってきたそうです。商社ですから外人の出入りはとくに珍しくもないのですが、当時どこの会社もエネルギー節減対策に熱心で、この商社でも電気代節約のためにエレベータは偶数階と奇数階にわかれて運転するようになっていました。

 その外国の方はそれを知らず、7階に行こうとして偶数階のエレベータに乗ったものですから、いくら7階のボタンを押してもランプはつきません。「あれ、おかしいな」 その方は何度も何度もかなりしつこく押していたそうですが、ついに首をふってあきらめてしまいました。きっとこのエレベータは故障していると思ったのでしょう。

「なんで教えてあげないのよ」と私が言うと、「だってそこには営業の人がいっぱい乗ってたもん。そりゃあ、私ひとりだったら、たとえ身振り手振りでも教えてたわよ。たとえば、こおおお、やってさ、ノー、ノーとか」と、彼女は派手なジェスチャーを示しながら、

「だけど、英語ぺらぺらの人たちの前で、なんで私がそこまで恥をかかなきゃならんのよ」

 これはまあ、誰かが教えるだろう、と、みんなが思っているうちについ言いそびれてしまったのでしょう。外国の方にはお気の毒でした。

 商社マンがみな英語ぺらぺらかどうかは本当のところなんともいえませんが、ブロークンな英語で立派な業績をあげている方はたくさんいらっしゃると思います。むろんどのような場合でもある程度の会話力は必要ですが、状況を把握するという能力は必ずしも言語だけの問題ではなく、ビジネスの成功はなんといっても交渉しあっている案件の本質をつかんでいるかどうかにかかってくるでしょう。

 これは和文英訳のとき、ネイティブ・チェッカーに訳文を見てもらったときにしばしば感じたことですが、いくら英語ができたとしても、ジョブのことがわかっていなければネイティブといえどもチェックはできないということです。ビジネスというのは実に多様化しており、たんに英語の添削で間に合うほど単純なものではないのです。

 たとえばこんな一例があります。あるとき、大手の鉄鋼会社で用いられているイオン発生器のメンテナンスの契約書を訳す仕事をいただきました。契約書といっても数ページ程度の簡単なものでしたが、このとき締め日についてネイティブ・チェッカーがなかなか理解してくれないので困ったことを覚えております。billingのcalculationのために日本ではビジネス慣行として一般に5日、10日、20日、25日などを毎月の締め日としている - といったことがこのネイティブ・チェッカーにはどうしても理解できないらしいのです。英訳するというのですから、この契約書を用いるのは当然のことながら外国企業でしょう。その外国企業もひょっとしたらこのチェッカーと同じようにそれを理解できない可能性はあります。

 しかし、この場合、彼らは日本の企業から仕事をもらうわけですから、その慣行を理解しようとしなければならないのは彼らのほうです。わからなければそこで話し合って理解を深めていくのもビジネスの手順のひとつではないでしょうか。

 むろん、翻訳を依頼されたクライアントからご質問があったとすれば、翻訳者はできるかぎりお答えするよう努力いたします。しかし、このチェッカーの、そんなものはおかしい(It doesn't make sense)という態度はどうも本質から離れているように思えました。

 話をもとに戻しまして、商社の組合に勤めて三年ほど後、父が亡くなり、それと同時に思うところあって私はしばらく職を離れることにしました。今でいうならプータローというわけです。これまではどの仕事も辞めてすぐ翌日から次の仕事というふうでしたので、失業保険をもらう機会もなかったのですが、今回初めて失業保険の受給を申請しました。

 このとき28歳。28歳にして私ははじめて本気で勉強する気になりました。多少のたくわえはありましたので、その貯金が続くかぎり勉強しようと思ったのです。翌日から図書館に通うのが私の日課になりました。もともと子供の頃から本の虫ではありましたが、あとにも先にもそのときほどつめこんだことはありません。そして1日15時間もぶっ続けに勉強すると、夜ベッドに入る頃にはまるで肉体運動をした後のようにくたくたになるものだということを知りました。

 このときに読んだ本は歴史や経済を主体としたもので、とくに具体的な目的があったわけではありません。けれども読めば読むほど次々と別の本が読みたくなり、最初に決めた1年の予定がいつの間にか大幅に伸びてしまいました。

 英語を本格的に学び始めたのもこの頃です。我ながら感心するほど規則正しい生活を送っておりましたので、これなら過去何回か挫折した英語もこのスケジュールに乗せて少しはものにできるのではないかと思いついたのです。

 といっても当時は翻訳のことなど考えていたわけではなく、目標はただミステリーを原書で読むことでした。同時に、英語の放送を片っ端から録音し、繰り返し聞くことも怠りませんでした。

 アガサ・クリスティとBBCのプログラムにはお世話になりました。

 ミステリーは読んでいるうちに犯人がわかるようになって自信がつき、その後今に至るまで人生の楽しみのひとつとなっております。

 そのような生活を二年ほど続けましたが、切り詰めていたおかげで貯金はまだ少し残っており、私は図書館大学の最後の仕上げに海外旅行をしようと思い立ちました。

 当時、現在オランダ国籍を得て永住している従姉妹がアムステルダムで暮しはじめたところでした。ちなみに彼女の父、つまり私の叔父は、生前、外資系の製薬会社から翻訳の仕事を請けており、私は叔父の辞書を形見にもらいうけました。薬剤師でもあった叔父は英語だけでなくドイツ語の辞書も多数もっていましたが、残念ながらそちらの辞書は私には猫に小判です。

 私はこの従姉妹の家をキーステーションにしてほぼ4ヶ月間ヨーロッパを放浪しました。その間、英語で苦労したことはさほどなかったように思います。毎日のように聞いていたBBCのナレーションのおかげでしょう。 パリから始まり、イタリア、ギリシャ、ユーゴスラビア、ドイツ、オランダ、デンマーク、イギリスと、この旅ではさまざまな人々と知り合うことができ、面白い経験を重ねることができました。

 しかし、最終目的地であったフィンランドにはついにたどりつくことができず、潜在意識の中でそれはいつまでも悔いとなって残っていたようです。

 その長年の心残りが通じたのでしょうか。思いもかけず私はこの年になってフィンランド人と結婚し、いまフィンランドに住んでおります。

 再び話を戻しまして、そのヨーロッパ旅行から帰国した後、私はふと思いついて英字新聞にPosition Wantedの広告を出してみることにしました。この広告では、ときどき、掲載者がserious one onlyなどとコメントをつけていることがあります。どういうことかと不思議に思ったものでしたが、自分で広告を出してみてその意味がわかりました。

「君は仕事を探しているんだね」という電話が入り喜んだのもつかの間、しばらくやり取りしたあと、「君のスリーサイズは」という質問に初めて変だなあと思いつつ、それでもその時点ではまだ気がつかないでおりました。考えてみればまともな会社がそんなことを聞くはずはありません。むっとして電話を切ったのは馬鹿正直に答えてしまった後でした。

 しかし、何事も経験です。数本の電話のあと、わたしはあるインド人が経営する貿易会社に就職することになりました。会社といってもわたしを含めて3人だけ。日本の服地を主として中近東に輸出する仕事です。

 初めて仕事についた日、私はさっそく船積み書類をフォワーダー、通称「おつなか」と呼ばれる運送業者にもっていくよう言いつけられました。大阪本町の国際ビルにあった業者です。書類を渡したら受領書をもらうといった常識程度のことは承知していましたが、受付の女性は書類に目を通しながら、「シッパー名をどうぞ」と聞きます。

「は?」

「シッパー名です。シッパーの名をおっしゃってください」

 私はよほどポカンとした顔をしていたのでしょう。受付の女性は書類から目をはなして私の顔を見たあと、笑いながら言いました。

「ひょっとして、入社されたばかりですか」

「はあ、じつはそうなんです」

 わたしは頭をかきながら正直に答えました。シッパーとは船荷主のこと、つまりこの場合は自分の会社の名前です。こんな当たり前の知識も初めてのものにとってはまったく想像できない事柄なのです。

 このインド人の経営者はもう年配の方で、もう一人船積みの仕事をされていた日本人の方も大手企業の退職者。どちらも本当にいい方たちでしたが、L/CやB/L、ライセンス、原産地証明など、貿易に関わる一連の手順を理解したあとも私の仕事はアシスタントの域を出ることはありません。また給料も極端に低かったので半年後には辞める機会をうかがっておりました。

 ただ、インド系の人たちが日本でコツコツ築いてきたビジネスの世界を垣間見たのはたいへん貴重な経験でした。

 その後もスキーホテルなど、アルバイトとして携わった仕事はまだ他にもありますが、最後に就職したのは輸出用の電気製品のマニュアルを作っていた印刷会社です。

 取引先は主に松下電器で、私はここで生まれて初めて本物のワープロに触れる機会を得ました。すでに富士通の第二期か三期のオアシスが出ていた頃で、私は機械ももたないのにそのマニュアルを買い、うっとりと眺めていたものです。

 この印刷会社が使っていたワープロは、ワープロといっても米国から取り寄せた印刷業務用のフォトタイプセッティングの機械です。価格は当時1500万円ぐらいしたそうですが、この機械がしていたことは、いま、10万円以下のパソコンでできるようになっています。ただ、あれほど大昔であっても、お金さえかければそれだけの機能を作り出すことが可能であったというのはべつの意味で驚きです。いくつかのフォントやコマンドなど、細かい点をいえば、私はいまだにあの機械のほうが優れていた思うぐらいです。

 それはともかく、この印刷会社で私たちは始めてパソコン通信を試み、成功させることができました。それはパーソナル・コンピュータを端末として日々の仕事に使えるようになったということです。 

 機械はタンディを使っていたと記憶しております。その端末機から電話を通じてデータを送信するのですが、当時はまだモデムさえまだ一般的ではなく、カプラーという今から思うと原始的とも思える装置を使っておりました。リターンを入れ忘れてデータがガタガタになってしまい、泣く泣くまた一からやり直したこともありましたが、それでも初めてテキストファイルの送信、受信に成功したときの感激、あれはとうて忘れるものではありません。

 それからすぐ300ボーのモデムが出たかと思うと、次は1200ボー、2400ボーとモデムは文字通り日進月歩で進化していくわけですが、、ここから先はモデムもパソコンもソフトもその進化のあまりの早さにあれよあれよと感激する暇もなく、むしろ「あれが足りない、これが足りない」と不満をつのらせては次のバージョンアップを待つのが常態というありさま。

 かつて「ああ、これもできる、あれもできる」と嬉し涙にくれていた殊勝なユーザーの面影などいつの間にか跡形もなく消えうせてしまいました。そういえば、モデムなどという言葉さえ今はもう使われることもなくなっています。

 いや、ほんとうに、始めて目にした8インチのフロッピー・ディスクをおそるおそる摘み上げた頃を思い出しますとまさに隔世の感がいたします。こんなことはすでにものごころがついた頃からパソコンをいじっていらっしゃる方々には想像もつかないかもしれませんが、その当時、コンピューターの本体はいうまでもなく、あのぺらぺらした情けないほど貧弱なフロッピーディスクですら、それはそれは貴重なものだったのです。

 とある夏の日、うだるような暑さについうっかり8インチのディスクをぱたぱたと団扇代わりにして「あほーっ!」と怒鳴られ、はっとしてその「罰当たりな」行為にすくみあがったこともありました。

 メモリーの単位もギガからテラへと進化している今日、そんな10インチ、8インチ、5インチなどというフロッピーは、いまやパソコンの「古代史」の中に埋もれてしまっていることでしょう。

 さて、この印刷会社で出していた輸出用のマニュアルは一般にひとつの製品に対し、5ヶ国語から7ヶ国語に対応するものでした。

 ヨーロッパに来てからよくわかりますが、何かの電気商品を買うと必ずといってよいほど多国語の使用説明書がついてきます。

 で、この製品ですが、全くの新製品は別として、製品というのは次々とバージョンアップされていくのが普通です。そしてその都度、マニュアルには修正が必要となります。それをいちいち各国語に翻訳していたのでは翻訳者とのやり取りだけでも大変な作業になってしまうことは容易に想像できます。

 英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語に加え、スウェーデン語とデンマーク語等(たまにロシア語やハンガリー語が入るときがありました)の数ヶ国語のうち、なんといっても主体になるのは英語です。

 そこで、この電気会社は、ひとつのマニュアルを作成すると、そのセンテンスをひとつひとつデータ化することを考えました。

 一般にマニュアルに用いられる英語というのは英語としては単純な部類に入ります。また似たような言い回しも多く出てきます。で、「ハンドルを右に回す」「ハンドルを左に回す」といった簡単なセンテンスをまず英語でデータ化し、それに対応するフランス語やドイツ語、スペイン語などをつくっていくのです。

 そうすると、多少の修正であれば翻訳者をわずらわすことなく完成させることができてしまいます。

 ときには新製品であっても、英語版さえできていれば、他の言語一式もまるまるデータからつくりあげることすら可能になってきます。これは一種の機械翻訳の先駆けだったといってもよいかと思います。

 機械翻訳というのは使い道を限定すれば非常に実用的だという実例かもしれません。

 印刷会社の仕事は技術的な側面から即発されるところが多かったのですが、この時期、母が病に倒れ、その看病のために仕事を中断せざるを得なくなりました。翻訳の仕事に入ったのは母が亡くなった後のことです。

 ある日ふと手にとった翻訳の雑誌に、「翻訳者になろうと思うなら、まず英語の本を100冊読むことだ」という文が目に入り、驚きました。 たった100冊!

 むろんそこには100冊読んだからといって翻訳者になれるとは書かれていませんでしたが、しかし100冊読んだぐらいで翻訳者を志すことが許されるのなら、自分にはとっくにその資格があると気がついたのです。

 英字新聞は毎日読んでいるし、日々の読書も英語のミステリーにあけくれていた毎日です。

 私はある翻訳会社に新聞記事の翻訳を送ってみました。幸いにもそれが認められ、さっそく仕事をいただくことになりました。それにつきましては「翻訳こぼれ話1」にある通りです。

 たまたま同じころ、翻訳会社に打診する前に先の翻訳雑誌の翻訳コンテストにも応募しておりました。夜の10時に電話が入り、第一次審査を通過したとの知らせ。400人中の20人だか25人の中に入ったということです。喜んだのはもちろんですが、翻訳会社からの仕事が立て続けに入り、コンテストどころではありません。もともと名よりも実をとる性分。なんといっても現実のジョブの重みは違います。次々と切れ目なく入ってくる仕事はそのひとつひとつが新しい挑戦でした。

 ただ、好況の恩恵を感じつつも、ときに一度に5件もの仕事をかかえると、さすがに根をあげてしまうこともありました。

 そのように二十年近くも共に仕事をしてきた翻訳会社でしたが、ついに不況の影響を免れず、ある日電話したところ「この電話は現在使用されておりません」というメッセージ。それとなく予想はしておりましたが、これだけの長い付き合い、せめて「さよなら」の挨拶ぐらいはあってもしかるべきではないかとがっかりいたしました。ま、翻訳料も不払いのままでしたから、あちらも言いづらかったことは想像がつきます。

 かくのごとき状況に迫られ、完全にフリーになってしまったところで、はたと気づきました。私は翻訳会社からクライアントのデータを一切もらっておりません。ということは、あれだけ大量の仕事をしてきたというのに、私にはひとりのクライアントもないのです。どのクライアントも私の名前をまったくご存じない! クライアントのデータは翻訳会社の財産ですからそれはちっともかまわないのですが、こうなると話が違ってきます。

 翻訳会社のクライアントは翻訳会社のクライアントであって私のクライアントではありません。しかし、翻訳会社の存在自体が消滅してしまったら、うーむ、これはどうなるのでしょう。

 などとのんきなことを言っている場合ではなかったのですが、この時期、私も自分自身の環境の変化が大きく、それだけで手一杯。個人的なことをもう少し付け加えますと、フィンランド人と結婚してフィンランドに移住することになったのです。国際結婚の手続き、そして引っ越し、いやもうその煩雑さにはまいりました。

 

※ ※ ※

 

 そしてそれから十数年、私的な面で目まぐるしく時が過ぎるうち、いつしか翻訳会社からの仕事も途絶え、自然消滅的にリタイヤという形となってしまいました。今はインターネットを友として日々を過ごしております。

 

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