南京事件 日本人48人の証言 阿羅健一著 小学館

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  南京事件はあったのか、なかったのか。あったとすればどのようにして起こったのか。
 たまたま出会った本書はさほど予備知識もないまま電子書籍で購入しました。1937年から1938年にかけて、そのときその場にいた人々が実際に目にしたことを聞いてみたい、誰もが思うことでしょう。

 この聞き書きの中には膨大な数の地名、人名、連隊名、階級などが出てくるので最初は少しばかり手こずりましたが、読み進むうちにいつしか語り手の話に心底引き込まれ、それぞれの見解の食い違いにも気が付いてくるようになりました。その食い違いに興味をそそられて読み返すうちに、戻ったところでまた新たな発見があり、ますます手ごたえを感じていきました。戦争というものがいかに多様な側面をもつものであるか、そして同じものを同じときに見ていても、見る人によってその印象は大きく異なるということを実感として感じました。極端な場合には同じ軍列に属していても、前線にいる人と後方にいる人はそれぞれ異なった景色を見ているのです。

 並みの知識では、この本は一回読んだぐらいではなかなか理解できないと思います。まず、1937年12月がどういう時代であったのか。そして日本軍はどのように動いていったのかを頭に入れておく必要があります。
 著者の阿羅氏は前書きで、「上海派遣軍を支援する第十軍、その二つの軍を統一指揮するために中支那方面軍がもうけられ、その司令官として松井大将が任命された」と説明されているのですが、このような単純なことですら、軍事にうとい私などはこの本を何度も読み返した後になってようやく頭に入ってきたぐらいです。文字を文字として読むことと、意味を理解することとの間には大きな隔たりがあるようです。

 ともすれば止めどなく膨れ上がる戦争の記録を「1937年12月から1938年1月にわたる期間、そのときあなたはどこにいて、どのような仕事をしていて、そして何を見たか」という質問を48人の方々に投げかけ、様々な角度から見えるものを追うことにより、はじめて理解が深まってきます。

 聞きにくい質問も阿羅氏は真正面から問うておられます。また答える側も率直に答えておられます。中国の人々も、当時の中国の人々が共産党軍や国民党軍をどう考えていたか、同じように率直に話せる時代が来るのを待ち望みます。

 私はこの本を人間の記録として読みました。一時は絶版とされていた本書が復刊され、電子書籍でも手に入るようになったのはまことに幸運なことだと思っております。

           ※ ※ ※

 語り手の一人である画家の住谷氏も述べておられますが、南京の戦いは上海の戦いの続きであり、その上海の戦いで日本軍は大きな犠牲者を出しています。まず、これを踏まえる必要があります。
 上海の戦いから南京攻略戦が終わるまでの犠牲者について、松井大将の日記によれば、日本軍の犠牲者は2万4千名、何応欽上将の軍事報告によれば中国軍の犠牲者は3万3千名。どちらも甚大な被害を被っています。
 上海戦を終えてあわただしく南京攻略に向かう日本軍。同じ軍であっても到着したばかりの第十軍と、すでに激しい戦いを経てきた上海派遣軍の部隊とは少し様相が違っていたことでしょう。
 上海戦を戦ってきた部隊は大きな人的損傷を受け、戦友の遺体を片付ける間もなく、南京に向かいます。向かう途中で何度も中国軍に襲われながら、ときには中国軍を追い抜いてしまうこともあったといいます。追い抜いた中国軍に後から襲われることもあったでしょう。むろん側面から襲われることもあったでしょう。逃げ延びた中国兵はまたゲリラ兵となって結集する。そのような便衣兵に対する日本兵の恐怖と緊張は極限に達していたと思われます。


 本の中には興味深いエピソードがいくつかありますが、その中のひとつ;
 南京戦に入る前、日本兵たちは法幣と呼ばれる中国の紙幣を飯盒の焚き付けに使っていたそうです。この法幣は共同租界地であれば立派に通用するものでした。それを知ってか知らずか、日本兵は焚き付けにしていた。知っていたとしたらじつに豪勢なものです。なにしろ札束を燃やして飯を炊くのですから。
 死を目前にした兵士たちにとって、紙幣などなんの意味ももたなかったのでしょう。
 ところが、南京戦を終えたあと、日本兵は今度は葬式のとき棺桶に死者と一緒に埋葬する飾り物の中国紙幣を大事に集めていたといいます。それだけ心に余裕が出てきたということでしょう。欲というのは生きている証といえるかもしれません。欲が出るのも生きていりゃこそです。


 上海派遣軍参謀だった大西一大尉の証言によりますと、南京攻略が終了したとき、第9師団の参謀長は南京の警備という任務を御免していただきたいといって上海に戻る許可を得ます。自分たちは上海の戦場掃除もしないまま南京に向かってきたからと。
 いっぽう、第十軍の参謀だった金子氏は杭州湾上陸点で新しい軍服を着せられた日本兵の戦死体がきちんと並べられているのを目撃したと言っておられます。おそらくそれが通常の戦闘後の手順であったのでしょう。しかし、上海戦では遺体を野にうち捨てたまま南京に向かわなければならなかったのです。このことひとつとっても上海戦の激烈さがうかがえます。その状況で南京にたどりついた兵士たちの目は血走っていたとの証言がありますが、戦死した友に対する思い、いつどこで襲われるかしれない恐怖、緊張、興奮、それはおそらく経験した人でなければわからないものかもしれません。


 幕府山の捕虜の殺害については諸説があるようですが、いずれにしろその背景にまだ戦闘時の混乱が続いていたというのは間違いないでしょう。だからこそ、日本兵もそこで巻き込まれて死者が出ているのです。
 日本軍にしても、新愛知新聞の記者だった南氏が目撃されたように、国民党軍に捕らえられた日本兵がプラタナスの木に吊るされたりしているのです。また都新聞の小池記者によると、上海の共同租界であっても日本人は危険な立場にあり、辻には親日だとされた中国人が殺されてさらし首にされていたといいます。そういう時代だったということです。いや、どの時代においても戦争とはさほどに残酷なものなのです。これが空爆だったら残酷ではないのか-そんなわけがないではありませんか。

 そしてこの後に続く戦争で、敵味方問わずそれこそ数えきれない人々が犠牲になっていきました。夥しい数の日本兵の遺骨はいまなお戦地に置き去りにされたままなのです。また中国では第二次大戦終了後も共産党軍と国民党軍の激しい戦いがありました。中国には天安門事件も知らない、ましてや文化大革命のことも知らない世代が育っているといいますが、多年にわたるその膨大な数の戦闘の中で、不自然に切り取られたこの一点が、単に政治的思惑から、日本軍の諸悪の象徴とされようとしているのです。


 この中に出てくる多くの方々は戦後の東京裁判で初めて南京事件のことを耳にし、思い出せるかぎりの記憶をたどり、捕虜のことを含め自分なりに合理化してつじつまを合わせようとしている方もおられます。けれど、「一般市民の虐殺を実際にその目で見たのか」という問いに対し肯定している方は一人もいらっしゃいません。 

 軍隊には宣撫班というものがありました。これははっきりいって現地の人たちをお菓子や食料で「手なづける」ことを目的としたものに違いありませんが、市民に対するそういう気の使い方は重要な任務でもあったはずです。また後方担当の参謀だった谷田氏の話からすると、日本軍は南京攻略後の統治についてもかなり綿密な計画を立てていたようです。南京陥落日直後から谷田氏の任務はまことに実務的なものでした。合弁の国策会社を設立し、鉄道、船舶、通信、国土開発、そして電気、水道事業などの経営にあたらせたといいます。その作業には多くの中国人も関わっていました。当時のことを谷田氏は、とにかく目の廻るような忙しさだったと語っておられます。虐殺が行われたとされているのはそのような時期だったということを思い返してください。この文脈を捉えられない人にはこの本を理解することは難しいでしょう。

※ ※ ※

 証言者の中には中国で学び中国通になった方も多く見られます。軍人の場合、それは敵の情報を探るためにも必要な学習であったでしょう。けれどほとんどの方々はまず心から中国に興味を感じ、中国語を学んだのではないかと思います。漢文の素養は昔から日本の知識人の教養を表すものでもありました。そのような知識人たちは中国に対し深い思い入れがあったはずで、1937年当時、ほとんどのアジアの国々が植民地化されていましたが、その思い入れ、あるいは思い込みは、欧米人の植民地の人々に対するものとはかなり異なっていたと思います。
 むろん同じ日本人とはいえ利権に群がる人々の強欲さには欧米人に劣らぬものがあったでしょう(富に対する飽くなき追求は洋の東西を問いません - 利権のみがこの世の関心事のすべてである人々にとって国家など意味をもちませんから)が、しかし、歴史的にみても当時の日本人の中国への思いは欧米人とはかなり異なっていたと思います。


 孫文の日本亡命をはじめとして、蒋介石も汪兆銘も日本に留学し、多数の日本人の知己を得ました。そのような状況で日本の軍事指導者も中国国民党の指導者もかつては語り合うことのできる仲だったのに、それが敵として対峙しなければならない仕儀に立ち至ってしまった、と、日本の指導者たちはしんみりする時があったようですが、そういうセンチメントはあちら側にはまったく通じなかったようです。残念ながら今もなお。


 さて、当時の中国の雰囲気を知る上で、非常に役に立つ映画があります。
「砲艦サンパブロ」Sand Pebbles
 古い映画ですのでYouTubeでもアップロードされています。日本語のあらすじもいれておきますので是非一度ごらんください。

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